サイド・ロード

相も変わらずしみったれ

スマバト4Uライト 3on3 オフレポ

※特に、真面目にスマブラをする人においては非常に、無駄ばかり詰まった、非常に腹立たたしいオフレポだと思う上に、僕もこのように無駄の多いオフレポになってしまっていることが非常に腹立たしいので、これを読んでいる暇があったらぜひSmashlogというサイトにアクセス、上位勢の記事を読んでスマ勢としての精神的健康を保ってほしいと思う。

 

 まず、生活習慣が崩壊していたのであった。

 当方、夏休みの大学生であるので、その例に漏れず、荒廃、怠惰、堕落などあらゆる楽しいことをいっぱいやった結果、まあ、気が向いたら座椅子をぶっ倒して、ぶっ倒れて、寝る、といったそんな感じの生活習慣が出来上がり、起きてやることといえばお絵かき、原稿、Twitterと非常に文化的といえば聞こえこそいいのだけれど、友達いない人といえばそうなのかもしれない、みたいな。

 この生活習慣の中になんらかの、スマブラをする時間こそあればいいのだけれど、肝心のWiiUというひとつの文明を他人に貸す、レンタル、しているわけであって、個人的に得られる情報といえば動画視聴なのであるが、まあお絵かきして、寝るみたいなそんな生活の中でスマブラ動画を視聴する時間、これ身内と通話などしている時以外は基本的に無く、まあ次回作の情報を見て、おほほん、と声を上げるだけのいわゆる「終わりのスマブラー」ということになってしまったのである。

 そんな終わりのスマブラーながら、まあスマバトというものには知り合い、楽しい人、会話をしたいひとがそれなりに、いる、ということで顔を出してへらへらとする、など、完全なる向上心を持った人からすれば、「てめえなんぞ、界隈のガン、キャンサー、アホでバカ、バホガキ」という造語を作られて罵倒されそうなものであるが、まあ面の皮、ムラこそあれどそれなりの厚さある場所であるので、参加、という形を取る、ということをさせていただこう、まあ1日目のライトさんのほうだけでも、ということだけ決定して先述の楽しいことに溢れた日々を過ごしていたのだが、おほほん、おほほんと微笑んでいたある日、ほにやさんから「泊まってもよろしい」とのご通達を得て、微笑んだ顔をぷるぷると揺らしながら「感謝、感謝、感謝」という意志の返信をし、二日目の申請を済ませたのだが、ここで、大誤算が発生したのだ。

 その1日目のライトさんのほうの申請を完全にすっぽかしていたのだ。というのに気がついたのも予選表が発表された後で、さああたくしのおあいてはどなたさんかしらん、と画像を見たところ名前も無く、頭に「?」を浮かべて申請者リストを見たが名前がなく、体の中心を非常な冷気が突き刺したのであった。

 その時点で起床時間、これ朝3時なわけで、そこからスタッフの方にこれこれこういう理由で、見学、という名の下労働に従事したい、土下座、という内容のテクストを紡ぎ、送信したあと、さあ厚い薄い問わず面の皮を滑るカミソリにヒヤヒヤしながら気を紛らわすために本を読んでへらへらするなどをしていた。

 気が気でもなく何も手がつかずにのんびり、としていたところ、まあお許しの言葉が出て、やったあ、と嬉しくなって少し踊ってギターを鳴らしてアンジーの「幸運<ラッキー>」という曲を演奏したりなどとやりたい放題して、そして今日、出発の荷物をなんら用意していないことに気がついて、はれ、と思ってしゃかしゃかかき集め、まあ宿泊するとなると寝間着、服とあと若干のお土産なるもの、あと歯磨きだとかそういうものを集め、まあそれで出発。電車では本を読んでおこう、というのも、二次創作小説もとい、妄想の文章化たるものを提供することが決まっていて、それのために資料を読み込む、とかそういうことをしておこう、というわけである。この一文を書いていて、「これからスマブラをしに向かうのに何たる体たらく、何たる堕落。対戦動画を見てこそスマブラーというものではないのか」と若干の憤りを感じたのだが、まあそれも続かずに電車の中では寝てしまった。

 会場からの道ではますた〜さん、ジャンさんと邂逅。ますた〜さんは別の知り合いを待っているとのことで別れてしまったが、ジャンさんといろいろな話をしながら歩行、会場に到着。

 はてさて何をしようかな、とぼけっとしていながらまあ受け付けの人、ということで座ってこっちですあっちです、といったことを喋ってどうこうする労働をし、中途半端に挨拶をして回ったところ、まあ若干数に「不審者」「やばめの人」「髪の毛を切るべき」とのことを言われてしまうなどと、そういった経験を積んだ。

 まあそのような経験を積んでいるうちにライト午前予選が開始。僕はかいデデデさんを応援するべく、かいデデデさんのブロックでかいデデデさんを応援。かいデデデさんは3位で通過。おめでたい。

 午後はファゴソームさんとコンビニに行ったのち、若干フリーをして、いずぅフォックスをしばき、ますた〜さんと対戦しようとしたところで本戦の運営の招集とのことで呼びかけがかかったので退去。まあでも、後半になってくるとこれなにをすればいいかあまりわからず、読書、スマホを触る、手帳にお絵かきをする、などといった行為を行っていて、最終的にプロジェクターに映される試合を見ながらスモークチーズ、ゼロカロリーコーラを貪り、仕事を完全に放棄、花は盛るWeekendという感じを楽しむといったことをしたりしていた。個人的に最高におもろい、と思った試合はShogunチーム対ルナチーム。お互いが引き立てあってる感じがして最高だった。配信台でやって本当によかった。

 で、その後はいっぱいフリー。絵を描くことが多くなってきた現在、集中力の向上が若干見られるようになってきたので、それが本当に若干ながら立ち回りに良い影響を与えていそうな感じがしてよかった。

 そしてその後はもう疲労などで脳みそをほろほろしながらファゴソーム車に乗ってほにや宅へ。オタクソング流れる車でなかなかに高まった。take!3. 2. 1. → s・p・a・c・e↑↑は聴き増したい。寿司を奢っていただいた。

 そしてほにや宅ではマリオパーティーなるゲームをプレイさせていただいた。このゲームのプレイ自体は二度目なのですが、まあ、眠い、し、金を盗まれる、金をしょっぴかれる、踏み潰される、などと搾取の連続に心身共に打ちのめされた。

 

 さて明日の予選なのですが、第一シードはShogunさんのブロックになるのですが、もうこれ、知らない、わからない、そんな連続でありますが、まあ可能な限りがんばっちゃおうかなぁ、なんて思いで、頑張りたいと思っています。とはいえ、まあこれ、軽く頑張る、なんて言ってしまえば頑張れるような気こそするのですが、まあ基本的にこれ頑張ったところで、普段から行動、プレイングをしていない人間が頑張ったところで、ということはあるのですが、まあその中でも、頑張る、となると、これ今日得た情報をもとに闘う羽目となり、となるともう4年近くに渡った経験を持ったプレイヤーに一切かなう訳はない、ということはあるのですが、まあ、それでも、頑張るぞ、と言わないとならない状況なのでありますから、頑張る、というふうにさせていただきたい、と思います。というわけで、がんばります。

やっぱまあ、ごたごた言わずにやってみるのが一番いいってこったよね。それはわかってるんだけどもね。

 一週間にわたるレポートの呪縛から開放された。これで僕はのんびり寝ることも、あるいは夜更かしすることも、あえて、寝ないという手段を選んでみたりなどと、様々な睡眠手段を取ることができるわけである。これで、レポートのせいで夜は眠れない。昼におもっきし寝てしまう、やることもないから真夜中にギターかき鳴らして大はしゃぎする、なんてことをする必要はなくなるのだ。これらを選択肢に入れながら、自由に睡眠を取ることができるのだ。何よりも幸福だろう。

 さてさて、ここまでレポートに苦しんでた理由としては、やはり、どのような名文をしたためて、この出席が微妙にあやうい授業の成績をがつん、と上げて単位を獲得してやろうか、などという心の持ちようがよくなかったのだ。

 学科が学科なので(秘匿させていただくが)割と自由でこのレポートの執筆が楽しくない、ということはないのだけれど、真っ白なワードの画面を見て、さてさて、交響曲を奏でるベートーヴェンがごとく、ときに拙く、ときにうまく、最大限に自分の中の声を表現してやろう、とキーボードをかつかつかつ、と押して見るのだが、どうにも息苦しい。おかしい。昔、といっても8ヶ月ほど前には、半分ねぼけたような頭で、7000文字にも渡るスケベSSを執筆していたような、そんな人間であったのに、文字を書くのはここまで苦痛なのかと、改めて認識した。

 例えばこう、文章の初めのスペースをタン、と叩いて、まあ序文を書こう、と思い、たたたたた、と指を滑らせる。タイピング検定系のやつで簡単に測定した結果、1秒間に5文字を打鍵することができる、ということが判明した僕のすごい指は、これもう3分に1文字。進んどらんのだ。なんなら打ってる途中で気持ち悪くなってくる。体調が悪くなった。ついでにエアコンのリモコンをなくして実際に風邪もひいた。そんなわけで、提出日前日までこう、ぼーっとしていたわけなのだが、2日前にさすがに本腰を入れないとまずい、ということでぱぱぱぱっとやってみたらなんかできたのだから恐ろしい。

 もうなんか、文章は書くのが本当に怖いのである。絵の場合だと、一瞬に浮かんだイメージ、こう、ぼけーっとしてたらなんか出てきたしラフしとこ、うむ、ええかんじや、この調子で書くぞ。ということでそのラフをより面白くない形にしていったら何らかの成果物ができる。描いてる間に浮かんだものもとりあえず描いとけば、なんらかの絵に不条理のようなものができて、一種広がりが生まれてまた面白い。町田町蔵が「歌詞の書き方」として柱にまず思い浮かんだ単語を置いて、その周囲に適当に散漫としたイメージをつけていく、というようなことを解説している動画を前YouTubeでみたのだけれど、自分の場合は本当にそんな感じで絵を描いているように思う。

 のだけれど、文章は止まってくれないし、不条理であればあるほどもうこれ、意味不明の文体、玄人向けの文章になってわからない人置いてけぼり、ましてや二次創作となってしまえば私物化、などと恐ろしいことを言われる可能性があり、作者は口をとんがらすことしかできない。未だに自分がどのようにして文章を生んでいたのか全く覚えていないし、そのせいで書かなくなってしまってもうコツなんてものがほっぽりだされてしまった。

 作品、というか対象物の共通のイメージとして、たとえばぽん、と湧いて出てくるイメージというのは円形のボールのようなもので、たとえばこれ絵だったら平面なところに置いてゆっくり腰を下ろして、しゃかしゃかしゃか、と書けばいいのだが、文章となると坂道をずだだだだっと下りながらキーボードをしゃかしゃか動かし、たまに分岐点にさしかかったりするのだから、本当に自分の持久力との戦いだと思い、本当にすんごいことだなぁ、と改めて思う。

 別にどっちが優れてるとか、そんな不毛なことを言うつもりはないのだけれど、やっぱなんか、なんか浮かんだものを外に出すってのは難しいんだよなあ、と改めて思った。

 ロコCP合同の参加締め切りがあと一週間を切った、ということは徐々に締切も近づいている、ということである。あと約30日程度、と仮定して、僕の進歩といえば本当に0で、ちょっと前に書いた「漫画か絵か文か」さえも決めかねている。非常に恐ろしい。せめて、ものが作れたら、と思う。それはもう最低限の考えではあるのだけれど、やはり万人に愛される、美しい、名文、名画を仕上げてやる、という心持ちは大事ではあるが、たぶん昔の僕は「絵描けないし文章のいろはもさっぱりだけどなんか作りたいな」くらいしか考えていなかったはずで、その頃の自分の作ったものが好きなので、これもうこの考えが自分のベストの考えではあるのじゃないか、と思うからなのだ。なんてことをごだごだ言わず、ものをつくれ、というのはあるんだけどね。

「俺はスマブラはひとつの芸術だと思うんだよね」

 絵を書く上で、なるほど全然気が付かなかったことなのだが、上手い人はどうやら「独特のリズム」みたいなのがあるらしい、ということなのだ。

 しかしまあ話してるのは絵の話である。音楽のリズムもカスもないだろう、あほ、ぼけ、と言われたらしゅんとしてしまうが、まあとにかくリズム、という言葉で表現するというのが妥当であろうと思う。音楽用語には疎いが、周期的なもの、という意味よりかはもっと漠然とした感じにとらえてもらったほうがありがたい。

 上手い人の線画などでたとえば、線の強弱。これは線画の影だとかそういう言い方をされる。

 試しに適当にうまいなーと思う人の絵を見てもらえればわかるのだが、黒のふくらんだところだとか、逆に細くなってるところだとか、そんな感じの箇所がところどころに見られるだろう、と思う。他の上手い人にもそれとは大なり小なり違いはあれど、基調の線の上にそういったものがぼくん、ぼくんといった感じで乗っかってる感じ。

 あとまあ、塗りとかでも例えとくと、ハイライト、影の具合だとか、そういうところになってくるだろう。これも正確な色の選択あるいは逆に崩したりとかアクセントを置いたりとか、もうここらへんはよくわからんので黙する。

 そういったものは、まあ多くの場合はそこにあるべくしてあるのである。それらが綺麗に調和した絵は非常に見てて心地いいものである。

 そして、例えば僕みたいにそこまで上手くない人間は、そのふくらんだところだとか、そういうのについてはまだよくわかってない。そんな感じである。また(こういう言い方をしてしまえば非常に失礼なのだが)逆に線画の影を多用してしまって奇妙な感じになってしまってる人とかも、探せばいる。

 ここでひとつ浮かんだのが、ギターの「トレモロ」のことだ。これは一部のギターについている変な棒で、グイッと押し込むと弦がわずかにたわんで「ウワンウワン」というふうになる。これ正しいところで使えば非常にいい感じになってくれる。しかしやたらウワンウワンしてたら苦しいし、かといって普通に演奏したら100点にはなろうともそれ以上のものにはならないだろう、と思う。

 そして、それに並ぶようにして「スマブラ」が浮かんだ。スマブラで最も強いとされていることとして「強いところで強い技を振ると強い」という本当に頭の悪そうな正論がある。

 ココにおける行動というのは単純な技だけではなく、例えばTANIステ、コンボ、ダウン連、メテオ、ぶっぱ、暴れなどなどその他も含まれる。基調としての立ち回り、技選択などとその個人のなかの技術。それらがあわさってひとつの立ち回りの曲調、文法、絵画が完成する。誰の言葉だったかは忘れたけれど、「対戦ゲームはお互いの美学をぶつけ合う戦いである」というようなことがある。当時はへえ、面白いなぁとしか思わなかった一文だけど、今だったらなるほどなぁ、と思える。

 別にスマブラに限らず、ひとつのなにか上達を必要とする事象において、すべてが非常に芸術というか、まあなんかそれらに近い位置にあるんだろうな、とは思う。

かくことについて

 気がつけばSSも最後に投稿したのは5月であって、もう2ヶ月もちゃんと文章を書いていないことになる。恐ろしいことだ。

 気がつけば、といってもここ数ヶ月のことなのだが、もうほとんど絵の人になっていた。というか、そもそも、絵の人になりたくて絵の勉強をしていたが「なんかあんまりかわいくないぞ」というものばかりが増えるので嫌になったところもある。別にだからといって本を読んでいたわけではない。面白いからやってただけで、面白くなかったらやってないのだから、面白かったのだろう。

 とはいえちゃっちゃかちゃらちゃらと絵を描くことだけは諦めるようなそんな気分になることはなかった。SS書くのが大変だから、とかそういうこともあるのだが、それ以上に一瞬で衝動を与えられる絵について「つよい!」ということを漠然と思っていたからなのだ。文章は読まなきゃいけないし、二次創作となってしまうと前提知識も必要とする場合が多い。ことに僕のSSに至っては劇場内なんかで展開させてやるか、とばかりに好き勝手な場所でめっちゃマイナーなイベントのカードから好き勝手設定をしっちゃかめっちゃかして遊んでる。前提知識があまりに必要すぎるし、最悪見てる人は置いてけぼりになっちゃうのだ。自分の文章の源流が大槻ケンヂ中島らもその他の皆様方にあるせいで、全体的にアングラの空気が漂うそんな感じのSSになってしまう。

 そしてなんと、グリマスが終わってしまって、あらゆる資料の入手が少し難しくなってしまったこともあり、普通に思いつかなくてうにゃうにゃ、としているうちに絵を描くようになってしまった。ここまではまだよかったのだが、情景の空想の場所を80〜90年代ロックを参考にしだしたので、もうミリオンライブもしったこっちゃねえ、みたいなことになってきた。水戸華之介筋肉少女帯、KISS、人間椅子町田町蔵PANTA、あと少しの中島らも

 常に周りと違う変なところ見てないと気持ち悪くなるような人間なのかもしれない。大賢名作しかし一歩間違えば大愚駄作に通ず、みたいな道を暴走族が如くけたたましいラッパ鳴らして蛇行運転して真面目にやってる人に向かって「お高くとまってんじゃねえ百姓どもがよーーー!!」とか叫んでるみたいな感じである。いい迷惑だ。

 しかしまあ自分の絵についても文についても、どちらも技術不足を実感していて、あまりにもあまりにすぎるために、いま現時点の実力で何か一冊、本を作るとすれば挿絵とSSというものになるだろうな、ということだけは思っている。

 アウフヘーベンという言葉がある。ヘーゲルだったかが提唱したもので、AとBという別次元の存在を否定してCというより高い次元のものを生み出す、という感じの言葉である。さてこれSSのA、絵のBがアウフヘーベンとしてCになるか、あるいはただの足し算のDとなるか、未知数のEとなるか。

じかんおだいじにしましょう

 ロコCP合同というものに多く知り合いが参加するということで参加したのだが、未だに何も決まっていない。ここでたとえば絵ができる人だったらどんな絵を描くか、だとか。文章書く人だったら、どんな名文をしたためるか、だとかそういうことだと思うのだが、僕の場合は、一応中途半端にどっちも触ってしまったせいで「そもそもなにをするか」なのだから、これはもう、かなり低次元なことである。

 別に自分がいかに器用かをこの後に何行も何行もしたため、「ふふん、僕はどっちもできる、すげーんですよ」みたいに鼻高く言うつもりはない。そんなことができるんだったら、もうとっくにやっとるわ、あほう、という感じ。

 挿絵という手段がありますよ、という声こそかかったものの、やっぱり何か決まってないと何も描けない。そうしてまあちょこちょこ思い出しては考えていて至った本日の朝、そのとき僕はシャワーを浴びていたのですが、そのときふっ、と今度は4コママンガの構想が浮かんできて、さあこれはどうしたものか。悩みの種が増えてしまった。

 時間が足りぬ時間が足りぬ、とわんわん叫んでのたうち回り、ギターを持ってベンベケベケベケ弾き、寝たのだが、それによって解決したことは一切ない。普通に描きたい絵もあって、普通に書きたい文もあるが、なんか中途半端なところで止まっている。

 いつかどちらかを突き詰めるしかないのだろう、と思う。例えばまんじゅう屋はまんじゅうを作り、ラムネ屋はラムネを作るように、絵描きは絵を、文書きは文を作る、といったふうに、完全に割り切ることでよりよいものをつくる、というのは当たり前で、ラムネも作れるまんじゅう屋、まんじゅうも作れるラムネ屋はどうしても専売者には劣る、と、そのようなところがありがちではある。

 最近は芸術に一生を捧げた人、あるいはその道を行く人の本を読むようになった。基本的に言ってることは似たようなところで、だいたい考えてることも一緒だったりするが、それに出会ったきっかけも一人ひとり違い、なんならそれは時に画家であったり作曲家であったり作家であったりする。根ざしてる木そのものは別個体だが、同じ水流を吸っているみたいな、そんな感じなのだ。

 この場合の水は感情である。例えば美しいもの、綺麗なもの、これをどの木に吸わせて、どのようにのびのびと、びよんびよんとさせてやろうか、けけけ、という感じである。

 問題は、その水をどういう配分で注ぐか、にかかっているような気がする。片方が育ち過ぎたら、基本的に日光を浴びることができなくなった木は滅ぶものである。そして、なによりもその水がない場合には、どうしようもなくなってしまう。その時は別の人の木を覗いたり、あるいは水を探しに歩いてみたりして感情を蓄えればいい。そしてまた、水を与えて育てていく。

 僕の場合、この木たちはどのようになっているのか全く見当がつかない。水が多すぎて吸えてないものもあれば、完全に枯渇しているものもあるだろう。ただ、まだちゃんと完全な木にはなれていないところは確かである。では、これらをりっぱな木に育てるためには、今書いているこの文を早く切り上げて、何するか考えることが大事だ。

部屋について

「いいねした人に布教したい作品を言う」みたいなタグをやって気がついた。僕の部屋はめちゃくちゃに整理されていない。

 もっと早めに気がつくべきだった。今こうやってパソコンを置いている机だが、これはいわばこたつである。ふつう机の上というとまあ文房具と紙、そしてまあ絵を描く人だったらペンタブと一冊二冊教則本が置かれているのだろうけれど、僕の場合そうではないのだ。

 本のタワーが3つできているのだ。さながら貿易センタービルのように佇んでいるのだ。

 突如現れたこの貿易センタービルは半分は「未読本」で半分は「既読したけどもっかい読もうと思って引っ張り出したけど途中で疲れて置いてある本」である。さらにこのタワーの中にはニーチェの「この人を見よ」が二冊ある。あんま考えずに買ったらなんか増えていた。恐ろしいことだ。

 そして基本的に既読本は読んだら本棚に放り込むことにしている。そして未読本の本棚も作ってある。未読本を読み終えたら既読本の本棚に突っ込む算段だ。なかなか頭のおよろしいやりかたとは思っていたが、この未読本既読本機構を作成した頃からずっと佇んでいる本もあり、そしてなぜか読み終えたのに未読本コーナーに押し戻されていたりする本がある。

 この時点ですでに、我が部屋の秩序が崩壊の道を進んでいるのはわかったと思う。

 そして僕は近所の画廊によく通うのだけれど、そこの常連の方に「引っ越すから家にある漫画を受け取ってくれる人を募っている」という人がいた。僕はなんかそういうのたくさんあったらおもろいやろ、という気持ちで軽く引き受けたところ、尋常じゃない数の漫画が我が家になだれ込むことになった。嬉しいことだが、CD棚を破壊して詰め込んだ結果、押し入れに初代貿易センタービルの建設が決定したのだった。めちゃめちゃに嬉しい悲鳴である。

 そうして物が溢れに溢れた結果、部屋に秩序は失われ、すごいことになった。おかげで地震の被害は最小限に抑えられた。そもそも何が落ちて何が崩れたのかさっぱりわからないからだ。

 今はただただ洪水とそして唯一きちんと整理されてるせいで異様なオーラを放つえっちな本が死んだ時に見られることに怯えるばかりである。

臆病について

 寝坊をやらかして、遅刻して怒られるのが嫌なので、今日は自主休講することにした。

 例えばこの場合、自主休講せずに行くという手段があるのだが、僕はなんとなく怒られそうな気がするので、自主休講をすることにした。

 自主休講することによって明日、今日真面目に登校した生徒に何を言われるのか怯えながら、なんかで読んだ「人は常に自分が生きやすいように生きている」とのことを思い出した。

 思うに、数多の人生経験を得た上でその際その際で「生きやすいように」歩んだ結果今の「生きている」自分がいるのであって、その上で完成した人格というものに「まじめ」だの「おこりっぽい」だのの単語を使って人格を閉じ込める。

 そもそもオタクというものは異様に臆病なものが多く、例に漏れず僕もそれに含まれる。特に僕の場合異様なほどに人の目を気にしてしまう自意識過剰なところがある。(なぜかこういう話をすると意外と思われることが多いのだけれど)

 例えば、人に指示を出すのが極端に苦手で、意見するのも苦手で、というのはこれは意見を出力することに対し「生きづらい」と感じたがゆえの要因があったのだろうと思う。

 そして会話も苦手であって、これも上と一緒の理由でいいんじゃないでしょうか。よくわかんないですが。

 そういうどこかでなんかあって最適化されたがゆえに、僕はもう喋るのとか無茶苦茶に下手くそなんじゃないだろうかと思い、例えばなんか配信とかしても4秒くらいしかしゃべれないでただ空虚がスピーカーを漂うんじゃないかとか思っていた。

 しかし最近Twitchで絵を描く配信をしたところ、2時間にわたって延々と独り言を喋り続けるという恐ろしくあり寂しくもありということを完遂してしまい、自分が非常に恐ろしく思ったこともあった。

 そして僕は活字の上でも結構おしゃべりなんであるから、これはもうよくわからない。現に今一人でもくもくと800文字近くここまで書いているわけだから。

 思うに、おそらく「相互の意思疎通」がいるということを恐ろしく意識しやすい、あるいは「嫌われたくない」というところがどこか根深いところにあるんじゃないか、とは思う。

 たしかに活字をこうやって滑らしているうち、部屋に響くのはからからとしたタイピング音だけ(今人間椅子の「もののけフィーバー」流してるんでその限りではないのですが)なので、要は活字という道具と僕の意識というところですべてが完結している。ここに別の人間が入る余地はない。いったん公開を押すと世界に向けてこの1043文字を張り出すことができ、そして僕はアクセス数を観てコーラを飲んで一息(と一げっぷ)を吐き出すだけ。サーカスあるいは演劇。そんな感じが最も近いと思う。活字の躍動なんていうとたいそうに見えるけれど、そんなところがある。

 しかしこれがチャット的なものとなると、僕が書く。それはただ一人だけのためである。その言葉という僕の心の奴隷であって、僕の心の檻でもあるものをただひとりのためにつかわせる。そしてもう一方も気持ちを奴隷たちに代弁させる。その奴隷たちは表情もなく、僕とただ向き合うだけだから、その本人がどんな気持ちで書いたかを伝える術はない。会話の場合はそれに感情も載せることもできるだろう。

 ただ、僕はその「人につかわせる奴隷」の扱いがものすごく下手であって、いつ相手の奴隷が槍や剣を持って襲ってくるかわからない。それだったら「出さない」というのを選び続けてきた結果、このような人間性が出来上がってしまったのである。

 こういうことを書いて自分と向き合ってみると「わかりやすいことじゃねえか、なんだよ、剣も槍も爆弾も銃も持ってきやがれい」みたいな気持ちになってくるものの、それはピエロが火を噴くみたいな感じであって、この記事を書き終わる頃には化粧をはずし、そして火も何も持たないピエロはただ怯えるのみなのだから、めちゃくちゃにこまった。

 うーん、もっとこう、なんとかしたいよね。難しいね。