まちばり

つくりかけのおもいでのパッチワーク

ドキン・ガン

 今年に入ってから5回目ほどになるだろうか。まいどまいど、本当にうんざりさせられる出来事である。

 低視力の傾向が出始めたのは小学校に入ってからだった。初めて買った赤い縁のメガネはどれだけもったのか、今は覚えていない。とにかく、そのころから乱暴で粗雑な素質は芽を出していたらしく、鼻あてはすぐにぐにゃぐにゃになって使えなくなったりすることがあった。

 視力はものすごい勢いで落ちていって、今ではメガネがなくては一寸先は、闇ではない。しかし、うすいもやが目の前一帯に広がり、歩行さえも困難になるほど、視力は衰えきってしまっている。

 そんなものだから、どこにおいたかわからないメガネが見つからないときは、本当にうんざりさせられる。

 今の黒縁のメガネは床にとっちらかったケーブルに邪魔されて一瞬で見つけることはできない。床を片付ければいいのだが、そんなことで解決しては苦労はない。敷布団の隙間に潜り込んでいたりすることも繰り返しあった。手をぶらぶらさせながら、猫背になってそのへんをしゃがみ歩く、というのは苦痛でしかなく、さらに過ぎゆく時間に比例して虚無感はぐんぐんに増えていく。

 出てこいよ、と言ってみても出てくるわけはなく、スマートフォンならば検索をして場所を出すことも可能だがそういったこともできず、本当に困り果てて、うぎゃぎゃんとか叫びながら布団の上をごろごろするとか、そういうことしかできないのである。

 決まる場所に置くなんてことが昼寝前の朦朧とした意識の中で達成することができる、と思っている人はそうとう訓練された人間なのだろうな、とふと思う。もちろん、わかりやすい場所を作ればいいのだが、基本的に不眠症気質なところがあるので、眠いときはさっさと眠ってしまわないと、次いつ眠くなるかさえわからないのだから。

 そうしてメガネを見つけてみても、とくだん感動といったものはなく、ああ、ついに平常者、通常の人間に戻ることができた、という安堵だけで、なにもない。

 メガネは空虚だ。

 街を歩く伊達メガネに殺意を剥き、レンズの汚れと傷に怯える、気弱者のイコンだ。

 なんて思いながら、見つからないとき用にいくつか、形の違うメガネを買っておこうかなぁ、どうせだし、たまに違うのかけておしゃれぶるのもいいなぁ、ということも思ってしまう。

衣服購入録 破滅編 (終)

 ゆらゆらと揺れる炎は赤かった。今は昔。府立体育館で「銃をとって叫べ 誰に俺たちが裁けるのかと」とか歌唱した人がおったそうな。

 なるほど、革命である。服装からの開放、というような話をして、世界をどうにかこうにか改変、やばい思想家とかが死んだ理由っていうのは戦争とか革命なのだから、そのへんを起こせばなんらかの世界改変は望めるだろう。

 やばいやつらと、ついでにアルマーニとかの首とかのため、私はいま、革命家として立ち上がったのである。服に高貴的な意味を持たせた者たちに裁きを。

 しかし、どうやればいいのだろう。革命つったって、全裸で絶叫などとしていたら、気が狂っている、などと思われて射殺、結局なんのメッセージもなく犬死、ということになってしまう。

 かといって、パンツさえも履いていては、それは私が忌み嫌った服装の呪縛であり、どうにもこうにもうまくいかない。最初に述べたように、衣食住が揃っていないと人間は生活することはできないのであって、どれか一つでも欠けてしまうと死んでしまう。

 私自身が社会的に抹殺されるのもなんだかちょっとつらい。

 そこで私は、友人に全てを託すことにしたのである。文明の利器というものはすばらしく、いまや電話、通話などということをせずとも、LINEなるサービスを活用すれば、チャットすることもでき、さらに送った瞬間に相手先にも文面が表示されるのである。これのせいで伝書鳩はだいたい全員死んだのである。

 私は友人に、「全裸で服からの開放について、演説してほしい」と頼むことにした。成功の秘訣その1。大切なところは他人任せにしない、ということで、ちゃんとスピーチの台本までを送った。

 返事は一向に来なかった。所詮怯えをなした腑抜けであったのだ。

 ARMYのTシャツでつったってると蚊にめっちゃ刺されるので、去ろう、とあらゆるところをボリボリ掻きながら自転車に戻ると、そういえば自決用に豆腐を買っておいたのがあった。

 なるほど、自決か。作家、三島由紀夫は、日本という国に憂いて、このままじゃ、やばいんだぞというようなことを言って死んだ。結局それによって日本は変わったかといえば変わらなかったのだが、いややっぱ、三島さんすげえじゃん、って今でもなってるのは、若干でもそういった行動が伴っていたからなのだろう。

 しかし、全裸で絶叫した狂人が豆腐の角に頭をぶつけて自決したところで、それは前衛映画、寺山修司の実験映像の枠を出ないような気がしなくもない。

 と、自転車を走らせながら考えると、浮かぶわ浮かぶわ、また革命、そして映像、というワードに沿って一つ、手段が浮かんだのである。

 YouTuberである。

 世間を騒がせた少年革命家、という存在もあるのだから、「はいさいまいどぉ!」って言って、ハダカで飯のレビューなどしたら、同じ意思を持った人たちと交流し、全裸でデモ、締めに集団自決、となったら政府もちょっとやばいな、と思わざるを得ない。アルマーニなどは即刻輸入停止を逃れられないだろう。するとどうなるか。老人が金を余らせ、自己顕示欲を満たせないストレスと白日のもとに晒された自らを彩ったアルマーニなどのないくちゃくちゃのビニールみたいな皮膚の情けなさと孤独から酒とタバコとポケモンGOに逃げ、ばんばん死んで年金とかいうやばいシステムがいらなくなり、この世界が改善へと導かれるのである。ブラボウ、ブラボウ。

 いいね、YouTuber、ひゃっほう。試しに「はいさいまいどぉ!」と叫んでみたが、なるほどなかなかいい感じである。私はまるで、体積の測り方を発見したアルキメデスのように「はいさいまいどぉ!」と叫び、けけけけけ、と笑いながら京都市内を爆走したのである。

 しかし、ここで最大の問題が生じた。もはや世界でさえも衣食住の3つに完全に毒されていて、すっぽんぽんでも大丈夫なのはもうアフリカの奥のほうとかそんくらいしかないので、基本的にすっぽんぽんではYouTuberにはなることができないのだ。

 ふざけるな。と叫びながらポルノサイトにそのようなものを掲載したところでやばい人がやばい目的でしか使わない上に、ブルーバック映像をいっぱい作られてなんかたいへんなことになりそうだ。

 私は、革命を声高に叫んだ結果、この狭い家の中からさえも、出ることができなくなった。

 寺山修司、書を捨てよ町に出よう、のラストの語りで、強姦魔が最後に干してある白いシャツを着て面接に行く予定があったことを思い出すが、私にはもう、そのような白いシャツもないのである。

 あるのは手元の白い豆腐のみだった。

 強姦魔には帰る家がないならば、革命家には、もはや思想しかないのだ。

 ただ一切にすぎてゆくものに対して抗うただ一つの思想、それだけしかないのだ。

 前しか向けない寂しい革命家には、切り立った断絶の破滅しか残されていない。

 私は、思い切り頭に豆腐の角を振りおろした。そして私は、もう二度と目覚めることはなかったのだ。

 

―終―

衣服購入録 堕落編

〜真面目に書いても何も面白くならないので、どうせならここから思いっきりフィクションにしてめちゃくちゃにしてみよう、との算段で書こうと思います。よって、ここから先の衣服購入録は作中で購入したを除きほとんどはフィクション、架空のものごととなります。〜

 

 私、余、僕(やつがれ)は、世界を燃やすことにした。

 そこまではよかったのだが、じゃあ火をつけてまわるのか、といえばそういうわけではない。

 なぜなら、昔こそ火の海、というのは木造建築物が多かったがゆえに果たすことができたものの、現代の日本はコンクリート建築が非常に多く、なかなか燃えないからである。

 ではそんじゅうそこらの人間の衣服に火をつけるのか、というと、なるほど、一種衣服からの、衣服を着せられる現世からの開放、ということではそのへんの人に火をつけ、御所を処女の死体で、下鴨を老人の死体で埋める、などということも可能かもしれないが、単純に連鎖が可能かというようなことを考えると、なかなか難しい。

 と、そのように思う中で、一つ思い当たる場所が存在した。

 なるほどなるほど、わはは、と笑いながらその前にお腹がすいていたのでスーパーに向かうことにした。

 家族がひしめいていた。ガキがわあわあと爆笑して白目を剝きながら爆走していた。赤子が爆裂していた。焼き芋焼き機からは爆音が響いていた。

 すでにそこは地獄だったが、私はライターと自決用の豆腐を購入。と、そこで奇妙な服を見かけた。

 そこにあったTシャツは胸元に「ARMY」と描かれている。

 敵、である。おほほ、これは今からの私にぴったり。自らを敵と名乗る男に襲われたところで、自分は一般人ではないですよ、敵ですよ、と意思表示しているにもかかわらず、反撃しないほうが馬鹿、アホなどと言いちらすことができる。これは一種、服で束縛する世間へ対する反撃である。だって意思表示だからね。

 私はその布をかごにぶちこんで、いくばくかの小銭を渡し、すべからく、すべての人の敵となったのであった。

 この白いTシャツを血で染めてやるのだよ、とうそぶきながら自転車を爆走させ、最も連鎖して人を殺しやすいと判断した、カップルが等間隔で並んでいる鴨川へと向かった。

 鴨川デルタを見回すと、いるわいるわ、やんちゃに川ではしゃぐ学生、三角ずわりして体をひっつけあい、蚊に血液を明け渡している男、女。

 完全なるARMYとなった私にとって、不足はない光景が広がっていた。

 「全員、殺す」

 そう言ってスロープを自転車でだだだだっと駆け下りると、なにやらぴかぴかさせながら走りくるおっさんがいた。

 ランニングのおっさんだった。

 ランニングのおっさんは、暗闇でも識別しやすいようにぴかぴかさせながら暴走、ふくらはぎとかを鍛えてなかなか死なないようにして、年金をたっぷり貰おうという算段だろう。金、金、金とにやにやしながら去っていった。

 私は、ああいう人間がめちゃくちゃにアルマーニなどのブランド服を購入。若き頃に果たせなかった貧民の記憶をそのままに、適度にリッチ、そんな生活をして、目をひん剥きながら労働者が働いた金を赤子がしょんべんを撒き散らすように使ってげらげら笑っているのだろう。

 許せんなあ、と思いながら去りゆくぴかぴかを観ながらふと、思ったのだが、炎というのはぴかぴかしているのであって、普通になかなかばれないように近づくってのはできないんじゃないかな、と思った。

 私としたことが、おちゃめだった。

 刺殺とかも考えたけど、それだと通り魔になっちゃって、メッセージ性がなくなっちゃうしなあ。どうしようかと思ってるうちにカップルがあらゆるところをボリボリ掻きながら去っていって、私はひとり、なにか思いつかないかなあ、と、マッチ売りの少女のセンチメンタルに沈みながら、ライターをぱっちんとつけたのだった。

衣服購入録 世界破壊編

 人間というのは、衣食住揃ってないと、人間としての資格を剥奪される。

 というのも、法律でそのように決まっているので、これは誰にも変わらず等しく課せられた義務であり、これを守らないと自分が死ぬか、法律のもと裁かれることが確定しているのである。

 そしてこの3つのうち、外を歩く場合は衣服を着用していないと、警察から逮捕され、美味しくないご飯と単純労働とをしなければならなくなり、前科というものがついて、これから死ぬまでの人生がみっともなくなる。

 これが住居に守られているなら限りではないのではあるが、ふとした瞬間に家から足を出したのを見られた瞬間に人生がみっともなくなるのである。

 衣服というのは、ものすごくおそろしく、かつ、大切なものなんである。

 つまりまあ、最低限を確保してないと、社会に抹殺されるのである。

 そしてこの、SNSのはびこるワールドでは、運悪く撮影などされてしまえば拡散され、場合によっては自殺さえも選ばなければならないのである。

 それほど、衣服というものは大事なのだが、いかんせん、「おしゃれ」「コーデ」などという光をはなつワードにより、我々のような大きめの石の下のダンゴムシ、重箱の隅、逆を向いてるひまわりにとって、非常に衣服店への入場ハードルというものは高い。

 考えてもみてほしい。

 そういった店では、ある程度そのように衣服購入のモチベーションが高い人間のために、店員さんはできるかぎり洒落た格好をしているのである。

 そして、衣服購入のモチベーションの高い人間というのは、見た目に気を使い、ある程度の金銭を所持しており、いっぱいの友達がおり、夏はバーベキューに海、昼は鍋にスノボ、部活はテニス、スマートフォンのゲームはパズドラ、といったふうに人間として完成された、模範的人間であり、すごい企業とかから内定をもらったりして人生をエンジョイ、湘南乃風、ワニマ、といった感じである。

 一方私は通学衣服は常にジャージ、金銭はさほどあらず、大学でできた友達は全員中国人(留年したのでもう全く顔を合わせない)。夏は家、冬も家といった体たらくであり、言ってしまえば真逆の人間である。

 ではその、湘南乃風人間に向けられた店に入店する、ということはすなわち、死ということであり、結局私は爆笑しながらジャージで暴れるほかないのである。

 しかし、それではよくない。

 別にジャージが悪というわけではないし、最低限、衣服ではあるが、つるつるしているのでなんか嫌なのである。

 嫌ならなにをすればいいか。

 変えていく、行動していかなければならないのである。

 てなわけで、私は「誰だって自分の宿命に打ち勝ちたいんだよ、バイ、寺山修司。あゝ荒野」とか叫びながら近所の古着屋に向かった。

 

 古着屋は凄惨たる有様だった。私はイヤホンで自衛していたので、湘南乃風、ワニマに対してシールドを張り、爆音で筋肉少女帯頭脳警察を流して逆相違で打ち消す、いわばノイズキャンセリングをすることができたのだが、似合う服を選び合ってるカップル、でかい外国人、やばい店員がげらげら笑いながら服を選んでいるのである。

 逃げ出しそうになった。が、私は立ち向かう、と決めたのである。皆殺しの川へ赴く象の気持ちで歩みを進めると、ジーンズコーナーがあった。ハンガーに噛まれて吊るされているのである。

 私は「ほほん、こういうものをつけることによって、我が身がすばら、ということを顕現させ、町をゆるゆると闊歩することができるのであるか」と思い、一枚一枚見て、あるダメージジーンズを見て、手が止まった。

 持ち主が明らかに死んでいるのだ。

 どう考えても日常生活でつけられるにしては限界がある傷が四方八方についたあげく、汚れに見えるそれも米国の国旗であるジーンズがあったのだ。

 これは間違いない、持ち主は米国人に殺害された挙げ句、米国国旗をスタンプ、月に旗を刺したあいつと同じようなことを人間におこなったのである。

 きっとあの、入店したときにいた爆笑しているでかい外国人は、指名手配の暗殺者であって、複数人で来ていたのもみんなで囲んで殴り殺して、それを知らずと高額で買い取った黄色人種を見て爆笑していたのである。

 許せん、しかし、私にはなにもできない、と思い、複数枚見ていたところ、ぜんぜんそんな感じの、持ち主が死んでいるダメージジーンズはいっぱいあったのである。

 ということはつまり、文学的に解釈するに芥川龍之介の「羅生門」なんである。

 あれはノリで死体がいっぱいあるところに入ったやつが髪の毛を引っこ抜いてるばばあを発見、かつらにするとかほざいておるので、生きるためには悪いことをする必要もあるんだよ、ということを発見したが、それはそれとして、そのノリで入ったやつがばばあの服を剥ぎ取って、売り飛ばすぞ、とスキップする、みたいな話だった気がするが、つまり、あの外国人は祖国から逃げてきて、どっかで死体からジーンズを剥ぎ取って売って、お金がいっぱい入って嬉しいなってしてたわけである。

 私は、彼らに対して疑いの目を向けたことを恥じ、でも死んだ人の服を着る趣味はないので、破れていないジーンズをかごに突っ込み、そしてついでに、人間的装いをするためのジャージからの脱却、ということでシャツを覗いたのだが、意味不明な外国人の顔面や、意味不明な文字が描かれているものばかりで、さらにまれにそういったものでも意味不明な値段がついていたりする。白いのでいいじゃないか、と思うのだが、そんななか、意味不明な外国人の顔や、意味不明な文字が書かれている服を買うリスクというのは実は高いのではないだろうか、と思ったのである。

 外国人が「黄色人種、死ね!」と胸にでかでかと書かれている服を着て歩いたら殺されること間違いなしだろう。しかし、英語で「俺ら白人主義者」とか書かれていてもわからないし、それで偶然、アメリカ人に見られたら、殺害されてしまうのである。

 服を買うだけでロシアンルーレットに参加させられるのである。

 ここで私は、何が衣食住だ、揃っていなければ自殺しなければならない、揃っていても場合によっては殺されるではないか、と絶叫しながら、世界を焼くことにしたのである。

インドカレー屋

 かつて私の家の近くにはインドカレー屋が存在した。

 インドカレー屋といっても正確には「ネパールインドカレー」という多国籍な食べ物であって、店員さんもネパールの人という、何が何やらよくわからない感じになっているが、言ってしまえばナンにカレーをつけて食べるカレー屋さんのことだ。

 インドカレーにハマったきっかけは、というと、筋肉少女帯の「日本印度化計画」という曲があり、「日本を印度にしてしまえ!」という叫びから始まるおもしろ革命ソングと、その作詞をした大槻ケンヂ教祖が、エッセイでやたらと、思い出したようにインドカレー屋に通う描写が見られる。(といっても、最近はあんまり見られないけど)

 どうにも、インドカレー、激辛。これを食べるに辛さで痛みでタリラリラン、脳内麻薬を分泌させていろいろ思いつくというのだから恐ろしい。これは真似せざるを得ない、ということもあり、インドカレー屋を探して市内をぶらついた末に見つけた、静かで、若干いい加減な、いわばベストプレイス。

 というのも、私はうるさい店、ファミリーレストランの老若男女があらゆる場所で思い思いに発する声というものがむちゃくちゃに苦手。幼児の泣き声、それに怒る母、店員さんのあたあたした感じとか、いっぱい頭に入ってきて、しんどいのだ。

 そして、きっちりしすぎる店、これもなんか怖い。この場でもし、誤って気が狂おうもんなら、絞殺、刺殺、撲殺、銃殺、あるいは諸々の殺害手段でもって淡々と黙らされ、明日には産業廃棄物として大阪湾を埋め立てる地となるんじゃないか、と気が気でならず、これもまた恐怖の中飯を食べなければならないが、ここで作法を損なう、あるいは、飯をこぼす、などしたら上記のことがあるのではないか、と味のしない飯を丁寧にすすることになるのである。

 ベストプレイスの店員さんは適当だった。私は配分が下手なのでナンにカレーをちょんちょんして食べているとどうしてもルーが余ってしまう。仕方がないのでルーをスプーンで食べたりするのだが、どういうわけかこの店はカウンター席だろうとフォークはあるのにスプーンが常に存在していない。店員さんに「あの……スプーンないんすけど……」と問うならば、「あー!」みたいな顔で別の席からトレーをそのまま取ってきてスプーンを取るよう促す。絶対にスプーンを足さない。

 フリーWi-Fiを開放していたがIDとパスワードは共に英語と十数桁にも及ぶ数字の初期設定のまま、それを丁寧に書いて貼り出している。結局誰も使うことはなかっただろう。

 客が私しかいなかったら店員さんは携帯の動画サイトでなんか観てる。

 なぜかカレーうどんを始めた。

 他にもいろいろあったが、なにかと愛嬌のある店で、客も少なく、殺されることもなさそうなので完全にのびのびと飯を食べることができた。

 そんな店がある日、潰れたのだ。客が少なかったのだ。確かに別にここでインドカレーをやる必要はないよなぁ、とは思ったが、しかし、もう顔も憶えていない、ネパール人の店員さんと今後会うことは二度と無いのだろう、と思うとなんだか不思議な気持ちだった。

 あの人はどんな気持ちで、どういう理由でこの日本の、京都の、めちゃくちゃ微妙な場所でインドカレーを作っていたのだろう。と、時々思うのだ。

 本人の居らぬ今、それを確かめる術はない。店員さんに顔を覚えられるくらいには通ったのだが、記憶にある会話は、店員さんが夏にふと一言漏らした「あっついですねー」に「そうですねー」って返したくらいである。

 会ったところで話すことは本当になにもないのだが、元気にしていてほしいな、とだけは思っている。

精神が不安定であればいいものが作れるという幻想

  Twitterで見かけただけで、かつ自分の中にも思っていたことでもあったので「本当にそうか?」の再確認みたいな感じで読んで頂ければ。

 

 正直言ってしまえば、メンタルが不安定な状態で「調べたもの」「経験したこと」を頼りになにかできることはあっても、メンタルが不安定そのものが優位に働くことはあんまりないんじゃないか、というのが私の思うことです。

 私自身好きな作家にうつ病の傾向が自然とよく見られることがあり、自身も結局それなのかは診断できませんでしたが、それに近い状態には陥った経験があり、SSRIとか飲みました。マウント。

 その時に感じたことなのですが、そもそも「よくないこと」ばかり考えている、とか「希望を見出せない」というのが鬱状態ならば、そこで「新たに希望を見出す」ために創作とかを行う、それによって「抜け出そうとするちから」みたいなのを感じられてよい、みたいなことだと思うんですけども、別にそれは鬱の状態でなくてもよいのであって、普段から常にアンテナを張って、自分をよりよくすることを考えていれば、自然とそのような創作物は作れるような気がしてくる。

 鬱状態、精神が不安定な状態というのは自分を下げることによってその希望を探す力、みたいなのは強まるかもしれませんが、治ってそれがなくなることに怯えたり、故意に精神を不安定にしてその状態に自分を陥れる必要というのは全くないんじゃないかな。常日頃から自分をよりよくする方法とか、面白い方向を向いていれば、なんかやっぱり「より上に行こうとするちから」みたいなのが感じられて、その状態の方が鬱状態の「自分に対する不安」みたいなのを考える時間が減るぶん、創作的な気がしてくる。

 

知らんけど。

雑感

・特に何かに宛てた話ではない。メモ的なもの。

 

・喜ばしくも19になった。だからといって劇的に変化したわけではない。が、3月という季節の特性なのか、ずっと気分が優れることがない。仕方ない。あと何故か右肩が常に痛い。

 

・絵が描けないぶん、文章がそのうち書けるかもしれない、ということだけ。想像がもっと持続的なものになってきた。積もり積もれば一つの話ができるかもしれないし、できないかもしれない。

 

・創作しなければ、と常に追われている人間の位置に今の私はいない。湧き出るイメージとそれを表現しなくては気がすまないという状態は幸福でもあろうが、苦悩でもあるのだろうな、ということを思う。今の私にそれはない。生きている心地もまた、一段と薄く感じる。創作だけが生きる道とは全くも思わないのだが……。

 

・最近、岩井寛の「森田療法」を読んだ。がんが全身にまわった著者は手も動かせず、目も見えず、それでも喋ることによってこの本は書かれた。ここで苦しみに耐えつつ死を見つめるも、さらなる苦しみの中で口述筆記を行うもできる、となったときに、前者をしたい、苦しみたくないという気持ちをあるがままに後者のより良い、人間としての尊厳を選ぶ、森田療法の”力強さ”がこの一冊を通して伝わってくる、いい本だった。

 

・最近寺山修司にやたらとハマっているのもあって「あしたのジョー」を視聴している。まだ本当に前半の、リングに立つ前までしか見ていないのだが、丹下段平がジョーのパンチに惚れ込みストーキング。野宿をするジョーに、わずかばかりの持ち金と一張羅のコートをかぶせて去り、その後ジョーが暴力団に囲まれたときには身を挺して守り抜き、その後ボクシングに協力的になったジョーが出した「3食昼寝つき 小遣い毎日500円」という無理なお願いを受け入れてついに働き始め、働いている最中は『ジョーは今頃きちんとトレーニングをしてくれていることだろう』と想い(その間ジョーはやんちゃしているのだが)、ジョーがやんちゃして集めた大金を偶然見つけたときには「きっと一緒にボクシングジムを建てようと渡した金を貯金してくれているのだ」と考えるなど、ものすごく「ダメ男と一目惚れした女の子」みたいな構図になっていて面白い。

 

スマブラのメインキャラが未だに定まらない。フォックスでもいいのだが、ただでさえ速い今作で足が速いキャラは目が追いつかないので苦しい……。

 

・どんどん「新しいものを摂取しよう」という気持ちが薄れていることに気がついてなんとかしたい、と思う。例えばゲームにしても新しく覚えよう、という気力が全く湧いてこないし、とにかく何かを始めよう、という気持ちが本当に無いに等しい。自分が覚えるのが非常に遅いということを自覚しすぎていて、恐れすぎているだけなのかもしれない…………言ってしまえば、もう何をするのも怖い。

 

・例えば白紙の紙。例えば読んだことのない著者の本。例えば開封されていないバームクーヘンの箱。たとえば一万円札。選択と可能性があるものについて、触ろう、という気が全く起きない。もう飽きた………………。