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立入禁止のたのしいほうへ

時間があるので、自身の幸福について考える。

 無事に入学前大学から出されていた課題が終わって、先ほど郵便局までチャリンコ"レジェンドヴィヴァルディ3号"をひとっ走りさせて提出してきたところだ。めちゃくちゃ雑にやってしまったように見えなくもないので、もしかしたら再提出を求められるかもしれないが、まあ、そうなったときはそういうことで考えようと思う。

 とまあ、そんなわけだから、今の僕はしばらく時間を持て余すことになるだろう。本読んだり絵を描いたりして、うまいこと時間を潰そうと思うのだけれども、せっかくなのだから有意義に時間を潰したいものである。何かを基準に行動選択をして考えるのがいちばん。そう考えて、自分の中の「幸福」になることをやろうと思う。

 

 そもそも自分の中での幸福というものは曖昧すぎて、幸福という二文字をすとんと置かれてもえーなんじゃこりゃってなってしまうのだから、もっと細かく分けてみよう。僕は何に幸福を感じるのか。

・おいしいものをたべるとき

・自分の技術の向上を感じたとき

・自分の表現がうまいこといったとき

・人が自分のやったことで笑うのを見たとき

・すげー音楽を聴いたとき

 本当はもっとドロドロとしたものもあるのだろうけども、簡単に分けたら、2018/01/31現在はこんなものである。

 こうして並べたものを見ると、だいぶよくわかんねえことに喜んでしあわせを感じているんだなぁと思う。一つ一つ考えよう。

 

・おいしいものをたべるとき

これを幸福に感じない人は、なんらかの精神に異常をきたしているか、あるいはアスリートな可能性が高い。それほど、これは多くの人にとって普通の幸せである。おいしいものを食べたいから労働するまではいかないけど、でも、おいしいものにはそこまでさせてしまいそうなほどの力はある。

とはいえ、これは今語る話ではなさそう。「そうだね」って感じで受け流すのが一番である。

 

・自分の技術の向上を感じたとき

誰しも、成長というものを感じたときは嬉しい。これも上に同じく、多くの人にとって普通の幸せであろう。

自分が退化している、老いている、劣化していると自覚したときのなんとも言えない恐怖やいらだちというのはスマブラをさぼり続けた結果フォックスが弱くなったことから経験したが、これがこれから先歳を取れば、いろんなことにも出てくる可能性があるってのは嫌だなぁと思ってしまう。

成長はやる気と幸福を、老化劣化は不幸といらだちを呼ぶものなんだと思う。ただ、不幸や劣化すらもそういうものだと受け入れる心を持つことが…しまった、だいぶ関係ないことを考えてしまった。

 

・自分の表現がうまいこといったとき

これは絵や文、音楽が該当する。ギターをぺらりんぽろりん弾いたり、ペンタブをシャカシャカしたり、キーボードをパタパタしたりして何かを作って、それがうまいこと、自分の思ったことを表現できたら何よりもうれしいし、それで思ったことが伝わればもうこれ以上のことはないと思う。

 

・人が自分のやったことで笑うのを見たとき

一応にも関西に生まれ関西に育った身分なので、やっぱりどこかこういうところはある。上の自分の表現の他人の評価みたいなもんです。笑ってくれるってよりかは、「汲み取って分かってくれる人」ってのが近いかもしれない。

 

・すげー音楽を聴いたとき

これは書いてる途中に「BYE-BYE」という有頂天の曲が流れてきて「あっ!」って思って書き加えた。別に音楽に限ったことじゃない。優れた創作物に出会った瞬間というのは本当にやる気をぶちあげられる。文、絵、などなどなど。スポーツもいいね。

 

 左脳が眠気に殺されてしまったけど、統括するに「自分のうまくいった表現をくみ取って理解される」「優れたものと出会い、それをばねに技術の向上をする」「そしてうまいめしをたべる」が現状自分の幸福ということになる。

 

 それをできる環境を作るには何が必要であるか?

 

 まず、「自分のうまくいった表現をくみ取って理解してもらう」ためにはまず、表現をうまくする必要がある。言葉が足りなきゃわからないし、絵が下手なら伝わらない。最大は理解されなくても、それでもなんかスゴい、という衝動を与えること。

そして「理解してくれる人」というのは多分、僕が気が付いてないだけで、少しいると思う。というか、いないと思ったら「幸福にならない」で終わるのでダメだからいると信じるしかない。

 でもただ大まかいろんな人にわかってくれ~~って感じはあんまり強くないなぁ、と思う。こんなことなんもできないうちに偉そうに言うもんじゃないというのはわかってるけど、やっぱり他者からの評価を基準に動くとどうしても自分の本当にやりたいことを押し殺しすぎて腐る。

 いるとおもってやる。なんかいいねとか、レスポンスをもらったら素直に喜ぶ、もらえなくても、しかし「俺はわかってるんだよなぁ~~~~www」とか言って自分で自分の作品いいねしとけ。いつだって自分は自分の最大の理解者。

 

 「優れたものと出会い、それをばねに技術の向上をする」というのは、僕は正直すげえものと出会ってもそれはそれでぼくはぼくですよ、ってやり方をしてたなぁ、と思う。改めるとすごいもったいないことをしているなぁ。

 好きと思ったものを真似したり、写し絵でもよし、めちゃくちゃじっくり見てもよしで、「自分がどうしてこれに対して好きという感情を抱いたか」ということをおおまかに理解していれば、自分の作ったものに対して「うまくいった」と感じることができるようになるんじゃないかなぁと思う。他人の表現を理解して、それを自分に組み込むってのを、絵とか文とかでも練習してみよう。これはやろうと思えば今からでも始められること。

 

 「うまいめしをたべる」というのが最大の難問である。人によって「うまい」の基準はさまざまで、僕が「うまい」と感じるものをぼぉっと考える。案外出てこないのだ。

 ある程度のお値段の料理は祖母に連れられてたまに行くことがあったのだが、どうやら僕の胃袋に対して無限の容量を持つと考えているのか、永久に脂っこいものをたべさせられてしまうのである。そんなことがあったものだから、僕の中のうまいの基準は大きく捻じ曲げられている。

 現状、「コイケヤのスコーンの2本目」が世界で一番美味しいと思う。といっても、コイケヤのスコーンはチャックの袋ではないし、スコーンの二本目は永久に食えないのだ。

 これが一番大きな課題である。下手すれば今後の人生にすら関わってくる。とりあえず、昼飯をカレー一辺倒でなく、サイゼリヤとか、自転車"レジェンドヴィヴァルディ3号"を動かしていろんなところのめしをたべてみたいと思う。たまには電車とか乗るのもいいかもね。おでかけは楽しい。

 

 とまあ、大まかに課題とそれの解決方法、これからやることというのは決まった。しかし今は恐ろしいくらいに絵や文の創作をするモチベーションはあるけど、これは長く続かないかもしれない、ってどこか思っているところがある。

 これは自分の体験に基づいた基準であるけども、基本自分の趣味は3年でコロリと変わってしまうような気がする。燃え尽きるまで詰めて詰めて行くせいで、ある時にコロンとやめてしまう。そんなわけだからインターネットで付き合う身の回りの人は変わりまくっている。

 だからたぶん、必死になってやりすぎない、続けるということ。これから先、絵だったり文だったりも続けれたら、一番現状の僕にとっては幸せである。

まあでも、この二つは人生と切れない二つだから、めったなことで飽きないとは思うけどなぁ。どうなんだろう。

 とりあえず3年後、うまいくいものを見つけているのだろうか。それが本当に心配である。