サイド・ロード

相も変わらずしみったれ

自分の創作文を見返すなど:夢で逢いましょう

 最近は中島らも大槻ケンヂをときどき再読も混ぜつつとっかえひっかえ読んでいる。今読んでいるのは中島らもの「バンド・オブ・ザ・ナイト」という作品。この作品は賛否両論、要は好きな人嫌いな人がけっこうはっきりする作品らしく、へえそうなのかと思って読んでみて「なるほど!」となった。

 この本ではおそらく中島らもが退職〜風天の日々のころを基盤に書かれたもので、主人公は定期的に睡眠薬とかシンナーとかでラリリだす。そのときに「全く関係ないもの同士を組み合わせる」(技法の名前を忘れた)文章が何ページにも渡って描かれる。伝わんないだろうから試しにひとつやってみると、「風呂場で錆びたカミソリと一升びん」…うーん、これだと比較的に距離感として近い気がするけれど、そんな感じ。読んでもらえばわかる、といえばそれで終わる話ではある。引用しろよって話ですけれど。僕は好きだけど疲れるので気が向いたときにちびちび読んでいます。

 まあそんなこともあって昔に読んだ本(といってもいうほど昔じゃない。去年ですらないかも…)を暇な時に読み直す。するとこのとき何考えてたんだろうな〜とか思うことがあったり、読んでた頃はどうでもよかったことが同作者の背景を深く読み込んだことによって知ることで別の視点から見えてきたりと、発見がいくらかある。

 面白いし俺自身にもやってみよう。そう思ってpixivを開いて今から読んで感想を書こうと思う。

 

www.pixiv.net

最初に存在が確認できたのが2017/11だったので、まあだいたい6ヶ月前くらい。当初は次に話すことを考えて微笑むのを「最大の輝き」と認識していたので、とりあえずここで終わらせておこうってことで切ってたけど、あとで付け足した。完全版は同12/13。

読書メーターでそのころに読んだ本を確認したら「文章の書き方(辰濃和男)」という新書があった。結構真面目だ。

 読み返すと「少女の存在が漠然すぎる」「やることが散歩だけなのちょっとアホでは」「そもそもセリフが少ないし地の文でキャラクターの特徴が出てない」「それは今も」「マジで上手い人どうやってるんだろうな」みたいにいろいろと突っ込みたくなってくるけど、糸井重里が「昔の自分に一言言ってあげられるってことは成長してるってことだぞ」みたいなこと言ってた気がするので、あぁ成長したんだなぁってヘラヘラ笑うことにします。へらへらへら。

 当時はたしかミリオンライブの終了が発表されて間も無くだった気がするので、「なにか遺さなくては」みたいな意識が強く働いて、大槻ケンヂの「Guru」とかを1曲リピートかけて聴いたりしてた。これの後奏は全部語りなんですが、「…ギリギリの思いを!怒りを!やるせなさを!お前がなぜ!人に伝えないというのか!このバカヤローーー!!!!」みたいなことを言って「ウン、そーだそーだ。」って思って、でもなんもできねえ〜絵も下手だしよぉ、あ、でもキーボード打てるじゃん。おっ、ちょうど出来損ないの作品もある。カタカタカタ。よし。

 まあそんな結果悪くもないといった感じになった。その後に続きってわけで「夢も未だ半ばに至らず」を書いて出したのは、いわばその頃の自分にまた逢いたかった…なんていうとこれまたたいそうな話になってしまうのですが、まあでも、あの頃に帰りたかったって想いはあっったんじゃないかな〜〜〜なんて思います。結構切羽詰まってたしね。その切羽詰まりの結果もう一個作ったんだからえらい。あそこで寝なかったのは本当にえらい。なーんだちゃんと帰れてんじゃ〜ん。へらへらへら。

 そろそろ作品の話をしましょう。

 無骨で折りたたみができる椅子は実はモデルがあって、これは祖父母の家で偶然見つけた、おそらく伯父が中学かなんかの授業で作ったであろう椅子です。マジで最低限って感じがしてすごく好きで、「雰囲気的にもこの椅子が一番では?」と思って無理やり突っ込みました。今は紛失しました。これはどうでもいい。

 「ロコ」が自分の好きなところも嫌いなところも改めて見つめ直して、ってところが個人的には好きなシーンですが、これはもう言ってしまえば「自己分析」に近いものなのかなぁ、と思います。「外的差異と内的差異」みたいな言葉を最近知って、これは「見た目という共通認識と心という概念のようなもの」って感じに捉えているんですが、外的な複製を作るとしても、それはクローンのように有機的なものではなく、おそらくこれは粘土に近い無機的なもので、それは写真、映画、絵画などの「凍結された時間を存在させる」ということ。

 江戸川乱歩の「蟲」は死体の防腐処理に失敗して腐ってぐつぐつしてくる死体を前に男がオンオン泣くみたいなワンシーンがあります。小説の彼女たちは成長していきますが、カードイラストなどは永遠の時をデジタルの中で生息します。そういったものを「追憶しつつ作る」という点は結構二次創作の本質を表してるんじゃないか…とか思ってるんですけれど、多分その頃の僕はそんなこと考えないで、「ロコが二人いたら楽しいよなぁ」くらいだとおもいます。結構そんなものなんかもしれない。

 そして夢を語るところでは、今度はいわば内的差異と向き合うことになり、ここまで全部ロコがロコを見つめ直しています。あんま考えてなかったけど、これは自己の再確認の話だったのか?今となってはもうわかりませんし、マジでなんも考えてなかった気がします。

 「ロコの作品」が自分の手を離れて独立して「ロコ」と対面するという点は、おそらく基盤に大槻ケンヂの「ロコ!思うままに」の「モモの愛が綿いっぱい」、「ゴシック&ロリータ幻想劇場」の「ゴンスケ綿状生命体」などの、「人形に”綿状地球外生命体”が棲み、命を持つ」ってのがありそう。この二つの作品に共通するのは、「人形に生命が棲み、そして最後に別れる」っていう(というか、大体の作品ってこうじゃねえ?)みたいなのがあるんですが、この作品も例外に漏れず、さっきの「だいたいこうな話」を完全にトレースして話が進みます。

 人間のような膝になっている理由は後で語られるんですが、今読み返すと「こいつは何もわかっていない」とおこってやりたいなぁと思います。多分そこは別に描きたいところじゃなかったんだと思うんですけれど、不自由が故の葛藤とか、そういうの書いたら絶対もっと面白くなってたと思うんですよ。まあくさくさしてもしょうがないし、当時自分なりに考えてることもあったんだと思います。だいぶ怪しいですけど。

 あとこいつら本当に鳩に餌やって帰っただけなのもなんかだいぶ寂しくねーか??もっとなんかしろや いや文句いっても仕方ないんですけど

 最後ちゃんと「それは自分自身だった」と書いてるし、最後鏡を見て笑うシーンも見るにさっきの「自己の再確認」ってテーマだけは綺麗に通しやがったな、と少しムカつきました。お前何も考えてねーだろ!そこだけうまいこと通すな!

 

 後半はもうなんか色々ボロクソ言ってしまいましたが、しかし僕はこの作品については結構好きだなぁ、と思います。そりゃ自分の好きなもん基盤にして作ったら好きになるのは当たり前ですが…。好きだからこそ「もっと…こう…もうちょっとさ…ん゛っ!!!!!!あ゛っ!!!!!」って感じ いやいや、でも糸井重里が…

 

 こっからは余文。このSSには最後デッサンを描くシーンがある。

 最近観た大槻ケンヂ氏の「ステーシー」を原作とした「STACY」という映画の主人公は人形劇をやっている人形作家/戯曲家。そこには原作と違ったオリジナルとして、「死を間近にした少女の言葉を主人公が書き記し、「言葉は、書き残すと永遠になる」とその少女に言うシーン」や、「Guruの語りをバックに植物園で主人公が死を直前とした少女のデッサンをしている」シーンがあって「あーーーーそりそりそりそりそりwwwwwww」って思った。もちろんその監督や脚本家、演出その他の人たちは僕よりも遠く存在している人たちであるのだけれど、やっぱり似たようなこと考えようとするとどっか地続きになっていて、そういうちょっと不思議なことが起こっても、それは必然であってなんら不思議ではない。この世界のどの人間も、偏見、思想、そして外的差異などの「水」によって隔たれているだけで、もともとは一つ丸のなかに終結するんじゃないか、と、いうことを改めて思った。これについては中島らもの「水に似た感情」という小説が取り扱っていて面白かったです。(変な終わり方…)