サイド・ロード

いつでも戻れるようにパンを撒いてゴー

じかんおだいじにしましょう

 ロコCP合同というものに多く知り合いが参加するということで参加したのだが、未だに何も決まっていない。ここでたとえば絵ができる人だったらどんな絵を描くか、だとか。文章書く人だったら、どんな名文をしたためるか、だとかそういうことだと思うのだが、僕の場合は、一応中途半端にどっちも触ってしまったせいで「そもそもなにをするか」なのだから、これはもう、かなり低次元なことである。

 別に自分がいかに器用かをこの後に何行も何行もしたため、「ふふん、僕はどっちもできる、すげーんですよ」みたいに鼻高く言うつもりはない。そんなことができるんだったら、もうとっくにやっとるわ、あほう、という感じ。

 挿絵という手段がありますよ、という声こそかかったものの、やっぱり何か決まってないと何も描けない。そうしてまあちょこちょこ思い出しては考えていて至った本日の朝、そのとき僕はシャワーを浴びていたのですが、そのときふっ、と今度は4コママンガの構想が浮かんできて、さあこれはどうしたものか。悩みの種が増えてしまった。

 時間が足りぬ時間が足りぬ、とわんわん叫んでのたうち回り、ギターを持ってベンベケベケベケ弾き、寝たのだが、それによって解決したことは一切ない。普通に描きたい絵もあって、普通に書きたい文もあるが、なんか中途半端なところで止まっている。

 いつかどちらかを突き詰めるしかないのだろう、と思う。例えばまんじゅう屋はまんじゅうを作り、ラムネ屋はラムネを作るように、絵描きは絵を、文書きは文を作る、といったふうに、完全に割り切ることでよりよいものをつくる、というのは当たり前で、ラムネも作れるまんじゅう屋、まんじゅうも作れるラムネ屋はどうしても専売者には劣る、と、そのようなところがありがちではある。

 最近は芸術に一生を捧げた人、あるいはその道を行く人の本を読むようになった。基本的に言ってることは似たようなところで、だいたい考えてることも一緒だったりするが、それに出会ったきっかけも一人ひとり違い、なんならそれは時に画家であったり作曲家であったり作家であったりする。根ざしてる木そのものは別個体だが、同じ水流を吸っているみたいな、そんな感じなのだ。

 この場合の水は感情である。例えば美しいもの、綺麗なもの、これをどの木に吸わせて、どのようにのびのびと、びよんびよんとさせてやろうか、けけけ、という感じである。

 問題は、その水をどういう配分で注ぐか、にかかっているような気がする。片方が育ち過ぎたら、基本的に日光を浴びることができなくなった木は滅ぶものである。そして、なによりもその水がない場合には、どうしようもなくなってしまう。その時は別の人の木を覗いたり、あるいは水を探しに歩いてみたりして感情を蓄えればいい。そしてまた、水を与えて育てていく。

 僕の場合、この木たちはどのようになっているのか全く見当がつかない。水が多すぎて吸えてないものもあれば、完全に枯渇しているものもあるだろう。ただ、まだちゃんと完全な木にはなれていないところは確かである。では、これらをりっぱな木に育てるためには、今書いているこの文を早く切り上げて、何するか考えることが大事だ。